Jan 09, 2009

入居徐々にガラスの修理して

我が家は2年前に今の自分のホームに引っ越してきました。その時、リビングルームのベランダにつながるガラス、細かい点々と小さな傷がありました。広範ているため、傷が目立っていたため、入居一ヶ月程度のガラス修理をお願いしました。ベランダのガラスもあって、大きくて重いので、クレーンの2階部分まで上がるが、非常に困難な作業でした。ガラスの修理がこのように大変だとは思わないだけに、今後の修理のご依頼は、慎重になりそうです。
セキュリティ対策として非常に効果的な方法は、キー交換ですね。やはり犯罪者たちに見てもその家の鍵の質は、気になりますね。そこにお金を賭けているセキュリティ対策の細心の家に泥棒の使用はないと思う。そうなれば、セキュリティ対策のためにも、鍵交換は必須です。絶対に必要ですね。
 【石垣】1771年の石垣島沖の大地震による津波で甚大な犠牲者が出た「明和の大津波」の痕跡を巡るツアーが1日、石垣市内で初めて行われた。3月の東日本大震災の影響もあって関心が高く、予定より多い約60人が参加。歴史を学んだ参加者らは、日ごろから防災意識を持ち、未来に向けて命を守る大切さを感じていた。
 ツアーは石垣市文化協会が主催。明和大津波研究会の正木譲会長(77)、島袋永夫さん(69)、島袋綾野さん(38)が講師を務め、特に被害の大きかった島の南東部を回った。
 住民1574人のうち1546人が津波で亡くなった白保村や、1221人中1050人が亡くなった宮良村などは津波後、村を高台に移転させた。今回のツアーでは新たに御嶽や井戸を造った場所も案内。永夫さんは「津波直後は怖いから高い土地に移るが、20年ぐらいたち、元の低地部に戻ってしまった」と災害の記憶の風化を指摘した。そのほか、津波が来たという伝承が残る土地や、津波で陸や海岸に打ち上げられた「津波石」など約10カ所を巡った。
 息子を連れて参加した木伏弘次さん(46)と妻佳子さん(41)=石垣市川平=は「どの辺まで津波が遡上したか知りたくて参加した。地震や津波のときはどうしたらいいか家族で話し合っておきたい」と話した。
 市登野城に住む高嶺和子さん(74)は「今まで津波警報が出ても避難しなかった。逃げることの大切さも分かり、意識が変わった」と充実した表情を見せた。

 秋晴れの午後。郡山市の仮設住宅で、田中信男さん(68)は庭のベンチに腰を下ろし、東の空をぼんやりと眺めていた。「空を見ていると、なぜか落ち着くんだよ」。視線の先には、故郷の双葉町がある。町には福島第1原発があり、自宅は同原発から西に約7キロ。先の見通せない避難生活が続き、望郷の思いは日々募る。いつしか、こうして時間を過ごすのが日課になった。【鳥井真平】
 田中さんは小学校入学時に右耳の聴力を失った。双葉町では、大工やタクシー運転手として生計を立ててきた。08年に、糖尿病の合併症で視力が落ちた両目を手術したが、医師には「いつ失明するか分からない」と告げられている。今年2月には突然、左耳もかすかに聞こえる程度まで聴力が落ちてしまった。
 3月11日。自宅の居間で妻(68)とテレビを見ていると、突然大きな揺れに襲われた。「家がつぶれる」。とっさに妻と外へ飛び出た。「避難してください」と呼びかける防災無線は、田中さんには聞こえなかった。妻に手を引かれて町を逃れ、長い避難生活が始まった。
 8月下旬までは、双葉町民が集団避難した埼玉県加須市の旧高校で生活した。部屋は4階の一室。階段の上り下りと、慣れない関東の夏の暑さが体にこたえた。
 「福島に帰らねえか」。妻に切り出した。警戒区域(原発から半径20キロ圏)の中にある自宅に戻れないのは分かっていた。
 それでも、生まれ育った福島で暮らしたかった。何より「いつ目が見えなくなるか分からない。故郷をこの目に焼き付けておきたい」という思いが強かった。
 郡山市の仮設住宅に移って2カ月がたった。避難所の集団生活から解放され、大きな不満はない。毎日、約6キロの散歩も楽しんでいる。しかし、「他にやることがなくて、退屈なんだよ」と話し、田中さんは再び故郷の方角の空に目をやった。
 第1原発の廃炉には30年以上かかると伝えられ、住民がいつ帰還できるかもまだ分からない。
 「20年も30年も待っていられない。そんなに時間はねえんだ。福島の人間は我慢して死ねってことか」。田中さんはそうつぶやいて、小さく震えた。

11月7日朝刊

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 福島第1原発事故で多大な被害を受けた県内で6日、子どもたちが主役の復興イベントがあった。東日本大震災と原発事故から8カ月近くたつ中、津波で多数の犠牲者を出した相馬市では、小中学生が子どもの視線で街づくりなどを発表。いわき海星高は間借り先の小名浜高と共催で感謝の催しを開き、「絆」を確かめ合った。
 ◇相馬の未来を考える、復興プラン提案も−−小中学生発表会
 「相馬の子どもが考える東日本大震災」(相馬市教委主催、日本ユニセフ協会後援)と題した発表会が6日、相馬市役所で開かれた。市立小中学校の全15校から代表2〜3人が参加し、地震や津波、原発事故により学校や家庭で起きた影響を報告。ボランティアなどに対する感謝の気持ちや独自の復興プランなどを示した。
 中村第二中2年の相浦佑哉君、久田和典君、中西真由さんは「未来へ」をテーマに発表した。地震と津波に強いまちづくり、自然エネルギーの有効活用を市側に提案した。「命の大切さ、人のつながりについて改めて考えた。笑顔で助け合うことが、復興の一番の近道」と結んだ。
 向陽中は「将来住みたい相馬市」と題し、地図に商工業や追悼エリアを盛り込んだ土地利用構想を紹介した。2年の小泉結佳さんと佐藤尚子さんは「失ったものは大きいが、学んだことも多い。私たちが作り上げていきたい」と誓った。
 市内では比較的放射線量が高い玉野地区の小中学校は、放射線の学習や生徒アンケートに取り組んだ。玉野中3年の土屋成実さんと2年の高玉智恵さんは「地域の人たちだけで除染は難しい。放射線や原発について、国や東京電力はわかっていることをどんどん公表してほしい」と訴え、「子どもも住民の一人として、できることから頑張ろうと思う」と述べて締めくくった。【高橋秀郎】
 ◇いわき・小名浜高、間借りの海星高と合同で地域復興祭
 いわき市小名浜の小名浜高と、東日本大震災に被災して同校を間借りしている同市のいわき海星高が6日、合同イベント「地域復興祭」を小名浜高で開いた。「Smile〜私たちの未来に向かって」をテーマに、多くの人出でにぎわった。
 両校とも今年は学校祭を開催する年で、もともと地域住民らを招く催しを開く予定だった。今回はこれに加えて、地域支援に感謝しようとより地域に開かれた祭りを企画した。
 この日は、校舎周辺や体育館で生徒らが模擬店などを出店したほか、両校の同窓会や父母会、地域の商店主らも協力して物産を販売した。特設ステージでは、地元出身のお笑いタレントらの芸も繰り広げられた。
 「海の高校らしさを出そう」と、海星高の父母らはサンマや貝を網焼きで振る舞うコーナーを出店し、人気を集めた。担当者は「海の旬のものを食べてもらいたいと企画した。感謝の気持ちが伝われば」と話した。【和泉清充】
 ◇故郷・小高への思い、大声で叫ぶ−−南相馬で集い
 立ち入り禁止の警戒区域に指定されている南相馬市小高区の復興を目指した「小高へ帰ろう!!の集い」が6日、同市鹿島区で開かれた。小雨の中、仮設住宅などに避難している住民が足を運び、催しや名物で故郷への思いを寄せ合った。相馬東高と福島商高に分かれて授業を受けている小高商高も出店し、独自開発の「だいこんかりんとう」を販売した。
 主催は、震災後に住人が作った「紅梅ふれあい会」(斎藤幸子会長、会員約80人)。大声大会に20人が参加し、「小高へ帰っぺー」(73歳男性)、「アイラブユー小高」(76歳女性)と絶叫。小学生らのグループも「帰りたーい」と叫んだ。
 会場は、商工会や事業所などが軽食など16のブースを設けた。小高商高は各地の文化祭などに積極的に参加している商業研究部が出店。部長の松本愛希さん(18)は「小高や福島のよさを伝えたい」と語った。
 市によると、小高区の住民は震災前の1万2838人に対し、10月11日現在で506人が転出し、市内に4216人、同市以外の県内に3533人、県外に4170人が避難している。【高橋秀郎】

11月7日朝刊

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